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最高裁判所第三小法廷 昭和59年(オ)1388号 判決

上告人 マルガリータ・パスタ

被上告人 柿崎雅嗣 外二名

被拘束者 柿崎宏雅 ピエール 外一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人○○○○○の上告理由第一点について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいて、被上告人らが被拘束者柿崎宏雅を拘束しているとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第二点について

原審が適法に確定した事実関係のもとにおいて、被上告人柿崎雅嗣が被拘束者らの監護にあたることが被拘束者らの福祉に適うものであるとした原審の判断は、正当として是認することができる。被上告人柿崎雅嗣が被拘束者らを連れて来日するにあたり上告人の承諾をえなかつたこと、上告人が母であること等はいずれも右判断を左右する事由とはいえない。所論引用の判例は、事案を異にし、本件に適切でない。論旨は、採用することができない。

同第三点について

所論の命令は、民訴法二〇〇条にいう確定判決にあたらないから、原判決が右命令と異なる判断をしたことに所論の違法があるとはいえない。論旨は、独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、人身保護規則四二条、四六条、民訴法九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 長島 敦 裁判官 伊藤正己 裁判官 木戸口久治 裁判官 安岡滿彦)

上告代理人○○○○○の上告理由

第一点原判決には人身保護法二条、人身保護規則三条の解釈、適用を誤まつた違法があり、右法令違背が判決に影響を及ぼすこと明らかである。

一、原判決は、被拘束者宏雅に対する拘束者らの監護が人身保護法にいう「拘束」に該らないとする。

人身保護法は、憲法の保障する基本的人権の一つである人身の自由が不当に奪われている場合に、その救済を定めるものである。したがつて本件にあつても問題とされるべきは、被拘束者らの自由が不当に奪われていないかどうかの点にあることはいうまでもない。被拘束者らは、生まれ育ち慣れ親しんだ母国イタリアから、その意思に反して、母および弟との間を引き裂かれて日本に連れてこられたのである。彼らにとつては、母国イタリアにおける生活にこそ本来の自由があつたというべきであつて、被拘束者宏雅に対する「拘束」の有無を検討するについては、右の点および同人の置かれた特殊な状況を考慮して慎重に判断しなくてはならない。

原判決は、「現在一三歳一〇か月の同被拘束者は、既に自己の置かれた状況について弁別するに足る意思能力を有し、請求者側及び拘束者側の前認定のごとき諸事情を感得した上、自らの意思で拘束者ら方に居住し、拘束者らの監護に服しているものと認定するのが相当であり、……」(一五丁表)として、「拘束」がなかつたものと断じている。しかし、本件のように遠く海を融てた両親のいずれの監護教育に服すべきかといつた人生の重大問題について適切な判断を下すに被拘束者宏雅が十分な意思能力を有していると認めることはできない。

ここに意思能力の有無を決定するについては、前記人身保護法の目的に照らし、単に年齢のみを基準とすることなく、被拘束者の置かれた個々具体的な状況の下で、真に自由な意思形成が可能であつたかどうかを考慮に入れる必要がある。これを本件について検討するとき、次の二点において被拘束者宏雅の意思は自由に形成される状況になかつたといわざるをえない。

第一に、被拘束者宏雅が請求者の子に対する愛情を誤解していることである。

この誤解は、原判決も認定しているとおり(一〇丁裏)、宏雅がイタリアに在住していたころから芽ばえ、現在まで抱き続けているものである。しかし、これが真の母親の愛情を誤解する不幸な思い込みであることは明らかである。すなわち、昭和五七年初め頃から請求者は、ミラノ市内に職を得て同市内の音楽学校の教師として極めて多忙な日々を過ごすことになつたのは原判決認定のとおりである。しかしながら、このような請求者が東奔西走して働かなければならなかつた原因は、夫雅嗣にあつた。つまり、雅嗣は、その頃から生活費を全く家庭に入れず精神病の療養に専念するため在宅することが多かつた。仮に雅嗣が希望したように請求者までも働きに出ることなく家に居たならば一家の生活は全く成り立たなかつたであろうことは明らかである。病気で働けない夫をかかえた妻としては、他に選ぶ道はなかつたものといえる。ところが子供にとつてはこれが不満であつた。ふつうであれば家にいて面倒をみてくれるはずの母親が近くにいてくれないからである。とくに請求者はミラノに勤めに出る際も下の幼ない二人は連れていくことが多かつたが、宏雅は父親とともにトリノに残されることが多かつた。そのため、宏雅は次第に母親に愛情が欠けていると思い込み、父親雅嗣の病気の原因さえ請求者にあると誤解するに至つた。このような感情は、母親を慕う気持ちが裏返しにあらわれたものということができる。

右のような宏雅の請求者に対する誤解は、来日後消え去るどころかかえつて増大してしまつた。請求者が何とかして自分の愛情を宏雅に伝えようとして手紙を書いたり荷物を送つたりがことごとく拘束者らによつて妨げられ目的を達することができず、その間に母親が自分達を見棄てたとの考えが芽生えてきたからである。

第二に、宏雅は、その意思に反して日本に連れてこられてからは、それまでと言葉も習慣も全く違う異文化社会の中でイタリアに帰りたくとも事実上不可能な状態に置かれてきた。このような状態の下では、父親雅嗣に対する精神的依存度はいやでも高くならざるを得ず、いわば、精神的に極端に従属した立場にある。

右のように、宏雅は一方において母親の愛情を誤解し、他方においては、母親との接触を一切断たれた状態の下で父親への依存度を強めている。このような一方的な状況の下で父親と母親のいずれのもとで監護・養育を受けるべきかという問題について、自由な判断を下せるはずがない。その意思は不当に歪められたものである。宏雅はこのままでは、一生母親と会わされることもなくその愛情を誤解したまま生きていくことになりかねない。原判決が少しでも子の福祉を考えたならばこのようなことは決して是認できないはずである。原審は宏雅が完全に拘束者らの管理下に置かれている不自然な現状を一方的に肯認し、請求者の気持ちを直接宏雅に伝える機会すら十分に与えないまま、宏雅の「意思」を論じる誤まりを犯している。このような形で「意思」を論ずることはきわめて危険なことである。なぜなら、一方の親がある一定の年齢に達した子供を無理矢理連れ去り完全に自分の支配下において、帰りたくないと言わせればそれであとは問題とされないことになるからである。

結局、原判決は、人身保護法二条、人身保護規則三条の「拘束」の意味を明らかに誤まるものである。

第二点原判決には、「拘束」の違法性を判断するにつき審理不尽、理由不備ないし理由齟齬の違法があり、また従来の最高裁判所の判例に反し破棄を免れない。

(一) 破綻状態にある夫婦間における意思能力のない子供の奪い合いの法的解決手段として人身保護法による救済手続を利用できることは、戦後最高裁判所の判例が一貫して認めてきたところであるが、判例は、破綻状態にある夫婦の一方が他方に対し人身保護法に基づき共同親権に服する幼児の引渡を請求した場合には、夫婦のいずれに監護させるのが幼児の幸福に適するかを主眼として幼児に対する拘束状態の当不当を判定し、その請求の当否を決すべきものとし(最高裁(二小)昭和二四年一月一八日判決民集三巻一号一〇頁、最高裁判(大)昭和三三年五月二八日判決民集一二巻八号一二二四頁他)、具体的に子の幸福を判断するについては、後述するようにいくつかの客観的な判断基準を用いてきた。しかし、原判決はこれらの客観的要素をことごとく無視し子供の主観・意思に判断の基礎を置く最も危険で子の幸福を無視する判断を下している。

すなわち、原判決一二丁裏には「右両名とも、現在の学校及び家庭生活によく適合し満足しており、この状態の継続を強く希望している。」とあり、同一三頁裏には「……イタリア在住当時に比して精神的に安定した日々を送つており、請求者の許へ行くことを嫌つている。」とある。原判決がこれらの要素を重視していることは容易にうかがえる。

しかしながら、監護が意思能力のない幼児である被拘束者の感情に適うものであるか否かは、そもそも人身保護法の「拘束」に該るか否かの判定には関係のないことである(最高裁(一小)昭和五三年六月二九日判決家裁月報三〇巻一一号五〇頁参照)。

したがつて、その拘束の当否を決するにあたつても当該幼児の意思を主眼に考えることは厳に慎まなければならない。なぜなら、意思能力のない幼児が現在の生活の継続を希望していることを理由として拘束の不当性がなくなるのであれば、はじめから当該拘束に対する救済を検討する余地がないことに帰着するからである。すなわち、幼児はきわめて環境に順応しやすく可遡性に富んでいる。日本に来て相当の年月が経てば友人もでき、現在の学校生活等に満足してしまうであろうことは容易に察知できることであつて、被拘束者真佐美に何ら特別のことではない。また、兄宏雅が母親のことを誤解している可能性があることなど、周囲には請求者のことに反感をもつ者が多く、請求者に対する意思は不当に歪められているといわざるをえない。このような被拘束者真佐美の置かれた状況を考えに入れることなく、被拘束者が現在の生活の継続を望んでいる事実をことさらに過大に評価している点は、原判決の最大の誤まりである。その子供にとつて真の幸福がいずれの親の許にあるかという後見的立場からの関連事実の探究を怠り、安易かつ軽率に現状を肯定したにすぎないとの批判を免れない。つまり、人身保護法を夫婦間での子の奪い合いに適用することが判例として認められた時から裁判所に課せられた使命は、夫婦それぞれにおける監護の状態等を比較し子の将来の幸福を見極めるところにあつたというべきである。したがつて、原判決が、母親の住むイタリアよりも日本の父親の許での生活環境がよりすぐれているというのであれば、十分にその結論を裏付ける客観的論拠が必要である。しかしながら、原判決は、イタリアにおける母親の許での今後の生活環境にほとんど関心を払うことなく実質的な比較を経ずに、被拘束者が現在の生活に満足しているという事実に基づき一方的に父親の許における現在の環境の方が優れていると判断している点に明らかな理由不備、理由齟齬ないし審理不尽がある。

(二) 原判決は、拘束の違法性を判断するについて、従来より判例が採用してきた拘束の違法性判断の客観的基準となるべき以下に述べるような諸要素を無視しており、従来の最高裁の判例に反すること明らかである。

イ、拘束開始の態様

最高裁(一小)昭和四三年七月四日判決(民集二二巻七号一四四一頁)は、「上告人が被拘束者を自己の許におくについては、原審認定のとおりいちぢるしく不穏当な手段を弄している点からすれば、上告人の被拘束者に対する監護養育に適切を欠くおそれなしとせず、……前示本件の事実関係のもとにおいて、夫婦の一方が他方の意思に反し適法な手段によらないで、その共同親権に服する子を排他的に監護することは、それ自体適法な親権の行使といえないばかりでなく、……」と判示する。

このように判例が拘束開始の態様を問題とするのは、実力による子の奪取が既成の事実をつくりあげ、現に子を自らの支配下に置くものが著しく有利となり不公平な結果を招来することを防止するためである。東京地裁昭和五三年八月二四日判決(家裁月報三一巻七号八四頁)が「人身保護請求が適用されるべき所似は、監護者の終局的決定までの間に実力行使による子の奪い合いを封じるところにある」という観点から「拘束者の拘束がその始めにおいていかなる態様によりなされたかも無視することはできない」とするのはきわめて正当である。

ところで、原判決は、「……同年三月一〇日ころ、請求者に事前に相談することもなく、請求者の不在中に、被拘束者らに自己の心情を打ち明け、同人らを連れ、身の回り品を持つて帰国の途についた。」(一一丁裏乃至一二丁表)として、雅嗣が請求者の意思を無視し一方的に子供達を連れ去つたことを認定していながら、この事実を考慮に入れず、子の意思を中心とする現状のみに焦点をあてて子の福祉を論ずる誤まちを犯している。すなわち、本件の右のような子供の連れ去り方は、夫婦の他の一方の共同親権を侵害するものである。その時期もまさにこれからトリノ民事・刑事裁判所において審理が開始されんとする直前のことであり、子の監護について裁判所という公正な第三者を介して真剣に話し合うべき親としての責任を放棄する卑劣な行為であつて、一国の司法作用に対する重大な挑戦でもあつた。さらに、雅嗣による右連れ去りは、被拘束者らの意思にも反していた。当時一一歳と四歳であつた被拘束者らがそれまで生まれ育ち、母や弟、友人のいる母国イタリアを捨てて日本に移り住むことを真に望んでいたとは到底認められず、また彼らにそのような重大な判断を下すことについて意思能力がなかつたことも明らかである。

さらに、本件においては拘束開始の態様を考慮する必要性は他の場合よりも数段大きい。というのは、拘束者は被拘束者らを連れ去り、請求者の容易に来ることのできない日本において二年七か月もの間、請求者と子供との接触をさせず完全に自己の支配下に置いた異常な事件だからである。したがつて、意思能力のない被拘束者らが現在の生活に満足しているという現状のみをとらえるならば、ことの真相を見失なうことになる。原判決は、過去の経緯にも将来の不安(この先何年間、年老いた祖父母が被拘束者らの監護を続けられるというのであろうか。)にも眼をつぶり、ただ表面的に現状を肯定するのみである。過去の経験則によれば、意思能力のない幼児は、菓子を買つてもらつたりして甘やかされると誘拐犯にすら馴つき、実親のもとに帰りたがらなかつた実例もあるという。まして本件は父親と祖父母の監護の下にある。とかく盲目的で子を甘やかしがちな祖父母の孫への愛情は、後々の仇になりかねないことも考えに入れる必要がある。

仮に原判決のいうとおり、被拘束者らが現在の生活に満足しており、安定した生活を送つていることを理由に子の引渡請求が拒否されるならば、破綻した夫婦間の子争いの場面においては、たとえ離婚の裁判手続が開始していようと、力づくでも子を奪い去り夫婦の他方の手のとどかない遠く離れた場所において完全に自己の支配下に置き既成事実をつくり上げた方が勝ちという不当な結果になる。このように法律と司法手続を無視した実力行使が認められてよいはずがない。これが認められるならば実力による子の奪い合いが横行し、到底法秩序は保たれなくなるであろう。

ロ、母性優先の原則

本件は、子を養育するに十分な経済力と愛情をもつた母親が子の監護を熱望して子の引渡しを請求しているものである。このような母親からの請求に対しては、その母親の監護・養育への適格性、子への愛情等に著しく欠ける等特段の事情がない限り、請求が認められるべきである。

判例をみると、下級審ではあるが、東京高裁昭和四八年九月一八日判決(判時七二三号四九頁)は、出生後自らその膝下において子供を養育・監護にあたつてきた母親からの請求事例につき、

「将来の離婚時における親権者指定の問題はともかくとして、このように肌身に接して幼児の養育にあたつてきた母親が、現実に養育可能の状態にあつて、その監護を熱望する以上、当面の右幼児の養育・監護は一般的には、その母親に任せるのが子の福祉のため適当であることはいうまでもない。」

と判示し、また東京地裁八王子支部判決昭和五九年五月二五日(判タ五三一号一八七頁)は、次のように判示する。

「被拘束者のように末だ二歳にも満たない幼児にとつては、母親が監護、養育する適格性、育児能力等に著しく欠ける等特段の事情がない限り、母親の膝下で監護、養育されているのがより適切であり、その福祉にかなうものであつて、被拘束者が、物心がつきさらに成長する過程において母親の愛情は何ものにも代え難い重大な影響を及ぼすものであつて、拘束者及びその母親にしても決してこれを代用できるものではない。このことは、生活環境の安定性、連続性の要請に対してもはるかに優るものというべきところ、……」

このような“母性優先の原則”に対して、最高裁(三小)昭和四六年一二月二一日判決(判時六五八号三三頁)は、「原審は、一歳程度の幼児にとつては……原則として実母によつて監護・養育されるのが相当であるとの考慮を基礎にしていることがうかがわれるが、このこと自体を非難するのはあたらない」として、この原則を肯定している。

本件における被拘束者らは、すでに二年八か月もの間母親との接触を一切断たれた異常な状態の中に置かれてきた。右判例が示すように子供の健全な心身の発育にとつて母親の愛情が何ものにもかえがたいものであることを考えるとき、被拘束者らの人格形成にとつて右期間が大きなマイナスであつたことは明白である。

本年八月、請求者がようやく来日を果たし、二年半ぶりに子供達への再会を求めたが、拘束者らは子供達自身が会いたがらないからという理由で拒否し続けた。実の母親が遠路はるばる訪ね来て久しぶりに愛の手をさしのべようとしているのに、子供達が本当に自らの自由意思で会うことを拒絶しているとは到底考えられず、そこには拘束者ら大人の意思が影響していることは容易にうかがえる。しかし、仮に万が一子供が母親に会うことを嫌つたとしても、その子を事実上完全に自らの監護下に置く一方の親としては、たとえ親同志はどんなに憎しみ合つていても、母を敬い母の愛の尊さを教え素直にこれを受けることを教えさとすべきではないだろうか。請求者は八月に来日した際、裁判所の廊下において拘束者雅嗣に連れられた宏雅の姿を見つけ思わずその名を呼びかけたが、宏雅はこれを全く無視するかのように請求者には目もくれず雅嗣と共に通り過ぎた。これが母と子の二年半振りのあまりにも悲しい再会であつた。この光景に接した上告代理人は、その世の中でこんなに不幸なことがありうるのかとさえ思つた。わが子でありながら、遠い異国に連れ去られ声を聞くこともできない。やつと訪ねて来て会おうとしても、身体だけでなく意思さえも「拘束」されていて、わが子を抱くこともできないのである。このような状態が是認されてよいわけがない。

古今東西を問わず、実の母親が健在でいて愛情をもつて手をさしのべているにもかかわらず、いかなる理由があるにせよ、これを受け容れることができないとしたら、その子供は最も不幸な境遇にあるといわねばならいない。にもかかわらず、意思能力がない子供が「母を嫌つている」「会いたがらない」という理由を盾に大人達の身勝手な判断だけで母親を追い返してしまうとは何たる非道であろうか。このような人達に子の監護者であることを主張する資格があるであろうか。その一事だけで、監護・養育の資格を疑われても仕方あるまい。

裁判所が人身保護法の適用にあたつて、いやしくも後見的な立場から子の福祉を説くのであれば、本件におけるような子供にとつて最も不幸な状態とその継続を是認できるはずがない。

第三点原判決には、外国裁判所の下した命令を不当に無視する判断遺脱、理由不備の違法があり、破棄を免れない。

(一) 請求者は、本件拘束の違法性を裏づける最大の根拠としてイタリア共和国トリノ民事刑事裁判所が昭和

五七年三月一六日に発した緊急・暫定的命令の存在をあげ、民事訴訟法二〇〇条の下でその効力を承認することを求めた。

これに対して原判決は、右命令の存在自体は認めながらも、その日本における効力については何ら明確な判断を示していない。わずかに、原判決一四丁裏には、「トリノ民事刑事裁判所の緊急的、暫定的な命令(同命令が、請求者の離婚を前提とする身上別居の訴えに基づき、あらかじめ拘束者雅嗣を審尋することなく一方的に発せられたものであることは、前認定のとおりである。)の存在を考慮しても、拘束者雅嗣の真佐美に対する拘束に、人身保護法上違法性があるということはできず、……」とあるが、本件トリノ民事刑事裁判所の命令が日本国内においていかなる効力を有するかについて何ら明確な判断を示していない。これは、請求者の主張に対する重大なる判断遺脱である。

また、もし原判決が、本件イタリア国裁判所の命令が拘束者雅嗣を審尋していないという事実のみをもつて、その日本における効力を否定するのであれば、以下に述べるところから、民事訴訟法二〇〇条の解釈適用を誤まつており、理由不備がありその違法が判決に影響を及ぼすこと明らかである。

民事訴訟法二〇〇条は、同一紛争の解決のために各国内で当事者がそれぞれ訴訟を提起する不便と不経済を回避するためのものであり、その一号から四号が承認のため要件を定めている。とりわけその二号は「敗訴ノ被告カ日本人ナル場合ニ於テ公示送達ニ依ラスシテ訴訟ノ開始ニ必要ナル呼出若ハ命令ノ送達ヲ受ケタルコト又ハ之ヲ受ケサルモ応訴シタルコト」を要件としているが、当事者の審尋をなしたかどうかは一切問題とされていない。本件の事実に照らしても、請求者が拘束者雅嗣を相手として、身上別居の訴えを提起した当時雅嗣はトリノに居住しており、呼出状の送達は同人宛に有効になされていた。ところが、雅嗣は卑怯にも審問期日の直前になつて突然、子供を連れ逃げるように日本へ帰国してしまつた。トリノの裁判所は雅嗣を審尋しようにもどうにもならなかつたのである。したがつて、このような状況の下で、雅嗣の審尋がなかつたことをことさらにとり上げ、それを理由に本件命令の日本における効力を否定的に解するのは適切を欠く。雅嗣自身自分の言い分があり子の監護者として適格性があると信ずるのなら、ほんの一週間もイタリアでの滞在を延ばして裁判所で申述することが可能であつた。ところが、雅嗣はイタリアで結婚し生活し同国で子を生み育ててきたにもかかわらず、同国の司法権を無視する形で一方的に日本に逃げ帰つてきてしまつたのである。このような行為は、日本の裁判所においても不利に扱われることはあつても決して有利に扱われてはならない暴挙である。

(二) イタリア共和国においては、昭和四五年一二月一八日より新離婚法が施行され、裁判離婚制度が導入された。同法の第四条は離婚訴訟手続を定めており、そのうちの第五項は、「もし、被告となる配偶者が出頭しなかつたとき、または和解が成立しなかつたときは、裁判所長は、子の意見を聴く必要があると考えたなら、それをしたうえで、職権をもつて、夫婦と子の利益を考慮し、予審判事を指名し、その面前に当事者が出頭してなされる審問を定めた命令にもとづく、一時的、緊急的な措置をとる。裁判所長の命令は、同国民事訴訟法一七七条(命令の効果と取消)により、予審判事によつて取消または変更しうる。」と規定している(訳は法務省民事局『外国身分関係法規集』による)。本件の暫定的命令は、右の諸規定に基づいて発せられているのであるが、この命令は、相手方不出頭の場合において、しかも子の利益を考慮して出されるものであることに注意しなくてはならない。したがつて、原判決のように審尋がなされていないことをもつてこの命令の効力を否定的に扱うことは、その制度趣旨に照らすと全く見当はずれのことといわざるをえない。原判決は、イタリア国の離婚手続制度とその下で下された本件命令の趣旨を理解しようともせず闇に葬り去つているのである。

イタリア、日本のいずれにおいても共通して、破綻した夫婦間でどちらが子を監護すべきかは、最終的には離婚に伴う親権者の指定等によつて決せられるべきことであるが、それまでの間、暫定的に子を監護すべき親として夫婦のいずれを選ぶべきかを決するについても、主として子の幸福を基準としてこれを定めるのが適当されている。わが国では、判例によつて夫婦間での子供の奪い合いに人身保護法を適用することが認められて以来、暫定的・緊急的な子に対する処置として、イタリア離婚法の下での暫定的命令とわが国の人身保護法の両手続とは基本的な類似性を有している。このような類似性を直視するとき本件トリノ民事・刑事裁判所の暫定的命令の内容は、人身保護法上の拘束の違法性を判断するにあたつて最大限の尊重が払われて然るべきである。

原判決は、「請求者と拘束者雅嗣間に今後不可避と思われる離婚に伴う親権者の指定等が最終的に結着するまでの間、父親の監護下での現状の生活を継続させることが、同被拘束者の福祉により適うものということができる。」(一四丁表、裏)と述べる。ところで、請求者は本国イタリアにおいて本件離婚手続を提起し、このイタリアでの手続によつて、「最終的な結着」をつけるつもりでいる。イタリアは、請求者と雅嗣と結婚をして結婚生活をずつと過ごし、三人の子供を生んだ地であり、しかも訴訟提起の時点で雅嗣はまだイタリア国内に居住していたのであるから、イタリア国の裁判所が最も本件夫婦間の離婚問題を管轄するにふさわしい裁判所であることは論をまたないところである。

原判決は、そのイタリア国の正当なる管轄権を有する裁判所が下した子供に関する暫定的命令を無視し、安易に、最終結着までの間現状を続けるべきだとするが、これではとりかえしのつかない子の不幸を招来しかねない。なぜなら、イタリア新離婚法の下では、裁判上別居が認められてから五年間が経過することによつて、婚姻解消の効果が生じる(同法三条)。そうなれば、拘束者雅嗣がイタリア国裁判所の手続を一切無視している現状からして、子の監護に関しては現在の暫定的命令の内容がそのまま離婚の条件となるのは確実である。原判決はそうなつた段階であらためて、「最終決着」を日本に持ち込み、外国判決の承認・執行を求める手続を起こせというのであろうか。そうだとすれば、請求者に二重の時間・労力・経費の負担を強いることになり、なによりもその間に子供はさらに日本の環境になじみ原判決の懸念する「生活環境の急変に伴う心理的動揺」のおそれは一層大きくなるであろう。これでは、何のためにイタリア国裁判所が暫定的命令を下したか分からなくなり、その意義は完全に没却されることになる。

(三) 離婚に関しては、関係国ごとに離婚判決の効力を考えるならばいわゆる跛行婚の弊害が生ずることがつとに指摘されており、これを除去するために国際的レベルでの努力が積み重ねられてきた。未だ発効するに至つていないが、ハーグ国際私法会議で昭和四六年に採択された「民事及び商事に関する条約」及びこれに対する「追加議定書」は、そのような努力のあらわれの一つである。また跛行婚発生防止を直接目的とするものとしては、「離婚別居の承認に関する条約」(昭和五〇年八月二日発効)がよく知られている。

本件のような離婚手続の過程の中での、緊急的・暫定的な子の監護権者の決定についても、その手続の迅速性の要請、子の将来への重大な影響を鑑みて、国際的な外国判決承認の要件・手続の統一がなされることが望ましい。しかし、残念ながらそのような国際的統一ルールないしは多国間条約が作り上げられていない現状の下においても本来の離婚裁判の管轄を有する外国裁判所の下した子の監護に関する命令を最大限尊重するのが、本件を審理する裁判所の責務であるというべきところ、原判決は、右の点に関する判断を遺脱し、あるいは理由なく本件外国裁判所の命令の日本国内における効力を否定した違法が顕著なものといわざるをえない。

【参考】原審(東京高昭五九(人ナ)一〇号 昭五九・一〇・三一判決)

主文

一 請求者の請求をいずれも棄却する。

二 被拘束者らを拘束者柿崎雅嗣に引き渡す。

三 手続費用は請求者の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一 請求者

1 被拘束者らを釈放し、請求者に引き渡す。

2 手続費用は拘束者らの連帯負担とする。

二 拘束者ら

主文同旨

第二当事者の主張

一 請求者の請求の理由

1 請求者はイタリヤ国籍を、拘束者らは日本国籍を有する者であり、請求者と拘束者雅嗣は、昭和四五年三月二〇日イタリヤ共和国トリノ市で婚姻し、その間に、長男の被拘束者宏雅・ピエール(以下単に「宏雅」という。)が同年一二月一四日に、長女の被拘束者真佐美が同五二年四月一六日に、二男正直が同五五年八月八日に生まれ、三人の子は、日本国籍及びイタリヤ国籍を有している。拘束者寅之助、同よしは、拘束者雅嗣の父母である。

2 請求者、拘束者雅嗣及び三人の子の一家はトリノ市に居住していたが、雅嗣は、昭和五七年三月一二日、請求者に何の相談もなく被拘束者両名を連れて日本に渡り、肩書住所の拘束者寅之助方に居住し、拘束者ら三名は、被拘束者らを監護養育して拘束している。

3 この拘束は、次の諸事情にみるとおり違法であり、かつ、その違法性は顕著である。

(一) (拘束に至るまでの経緯)

(1)  請求者はピアニスト、拘束者雅嗣はギクーリストであつて、それぞれ、昭和四七年以降トリノ市で音楽学校の教師及び個人教授をして生計を営んでいた。

(2)  雅嗣は、極めて神経質で精神的に不安定であり、些細なことにも興奮するため、夫婦関係は次第に冷却していつた。その上、同拘束者が生活費を渡してくれなかつたことなどから、請求者は、昭和五六年一〇月、比較的待遇の良いミラノ市内の音楽学校に転職し、下の二人の子を伴つて、自宅から遠隔のミラノに勤務せざるを得なかつた。

(3)  また、拘束者雅嗣は、昭和五一年ころからイタリヤ女性二名と不貞関係を結び、同五五年ころから請求者に暴力を振い、無断外泊し、同五六年一二月一三日日本に帰国し、翌年一月一六日トリノ市に戻つたが、全く家庭を顧みず、日本から戻つた翌日請求者に殺してやるなどと暴言を吐く状態で、夫婦関係は完全に破綻するに至つた。

(4)  そこで、請求者は、イタリヤ共和国離婚法三条の規定により、離婚の前提とされている別居を決意し、同五七年二月三日、トリノ民事刑事裁判所に対し、拘束者雅嗣が相手方として、身上別居の訴えを提起し、同裁判所は、同年三月一六日、右当事者に対し、三人の子を請求者の監護に付する等の緊急的、暫定的な命令を発した。

(5)  しかし、これより先の同月一二日、拘束者雅嗣は、請求者の留守中に、甘言をもつて被拘束者らを連れ出し、日本に渡つたのである。

(二)(1)  来日直前、被拘束者宏雅は、トリノ市内の小学校六年に在学し、被拘束者真佐美は、同市内の保育園に通い、両名ともイタリヤ語に通じていたが、真佐美は殆ど日本語を解せず、宏雅は、日本語の日常会話ができる程度であつた。

(2)  特に、宏雅は、異文化の社会にあつて、一種の幽閉状態に置かれ、拘束者雅嗣への依存度が強く、同人から、請求者に対する憎悪感、畏怖感を植え付けられ、意思能力を有しない状態にある。

(三) 被拘束者らの来日後、請求者は、被拘束者宏雅に対し、手紙及び電話で連絡を計つたが目的を達せず、同五九年八月四日被拘束者らを取り戻すため来日し、拘束者ら方に赴いたが、被拘束者らとの面接を拒否され、会うことができなかつた。

(四) 現在、拘束者雅嗣は、精神科医の治療を受け、定職に就かず、演奏旅行のため留守勝ちであつて、被拘束者らを十分に監護養育することができず、また、同人らの祖父母である拘束者寅之助、同よしも、被拘束者らを甘やかし、監護養育上の適格性を欠いている。

(五) 請求者は、現在、音楽教師として十分な収入を得、二男正直と二人で生活しているが、前記命令に従つて三人の子と同居の上、被拘束者らに、その希望に副つて音楽教育を受けさせるなど充分の監護養育を施こす計画である。母親である請求者の許で、弟正直といつしょの生活をさせることが、被拘束者らの福祉に最も適うものであつて、前記の諸事情を勘案すれば、拘束者らによる本件拘束は、被拘束者らの福祉を阻害し、その違法性が顕著であるというべきである。

4 よつて、請求者は、人身保護法二条及び同規則四条に基づき、被拘束者らの即時の釈放及び引渡しを求める。

二 拘束者らの認否

1 請求の理由1の事実は認める。

2 同2の事実中、拘束の点を除くその余の事実は認める。

3 同3の冒頭の主張は争う。

(一)(1)  同3(一)(1) の事実は認める。

(2)  同(一)(2) の事実中、夫婦が不和となつたこと、請求者がミラノ市内の音楽学校に転職し、下の二人の子を伴つて勤務したことは認め、その余の事実は否認する。当時、拘束者雅嗣は、夫婦の性格の相違、子の養育についての意見の相違、同拘束者の仕事に対する請求者の無理解などから、精神的にきわめて疲労した状態にあつたのである。

(3)  同一(3) の事実中、拘束者雅嗣が一時日本に帰国したことは認めるが、その余の事実は否認する。右帰国及びイタリヤ国内における同拘束者の旅行は、医師の指示に基づき静養の目的で行われたものである。

(4)  同(一)(4) の事実は認める。しかし、該命令は、昭和五七年四月一七日裁判所により取り消された。

(5)  同(一)(5) の事実中、甘言の点は否認し、その余の事実は認める。

(二)(1)  同3(二)(1) の事実は認める。

(2)  同(二)(2) の事実は否認する。

(三) 同3(三)の事実中、請求者から被拘束者宏雅あてに手紙及び電話があつたこと、請求者が拘束者ら宅へ来たことは認め、その余の事実は否認する。

(四) 同3(四)の事実中、拘束者雅嗣が演奏旅行をすることがあることは認め、その余の事実は否認する。

(五) 同3(五)の主張は争う。

三 拘束者らの主張

拘束者雅嗣は、請求者が、勤務のため幼い下の二人の子を連れて遠隔のミラノ市に滞在することに反対し、被拘束者らも、互いに別れて生活することを痛く悲しんでいたが、請求者は、家族の声に耳をかさず、ミラノでの勤務を継続し、このため被拘束者らに精神的圧迫を加える結果となり、同人らは、請求者よりも拘束者雅嗣を慕うようになつた。そこで、雅嗣は、かかる環境から被拘束者らを解放してやる目的で、同人らを連れて来日したのである。

来日後、程なくして、同拘束者の精神的疲労は回復し、現在、ギターの演奏活動と個人教授に従事し、生計に必要な収入を得ている。また、拘束者寅之助、同よしは、高齢ではあるが、心身ともに健康であつて、拘束者雅嗣の留守中、同人に代つて、被拘束者らの面倒をみている。現在、被拘束者宏雅は、肩書地の市立中学校一年に、被拘束者真佐美は、同市立小学校一年に在学し、現状の生活の継続を望み、イタリヤへ戻ることを強く拒んでいる。

以上の情況のもとでは、拘束者雅嗣において、拘束者寅之助及び同よしの補助を得て被拘束者らを監護することが同人らの福祉に適うものである。

第三疎明関係

〔略〕

理由

一 請求の理由1の事実(当事者らの身分関係及び国籍等)並びに同2の事実(当事者らの居住関係及び拘束者らによる被拘束者らの監護。但し、拘束の点を除く。)は当事者間に争いがない。

二 (被拘束者真佐美に対する拘束及びその違法性の有無)

1 右争いのない事実によれば、被拘束者真佐美は、現在七歳六か月の児童であるから、意思能力を有しないものというべく、したがつて、拘束者雅嗣は、同被拘束者を拘束しているものといわなければならない。

そして、成立に争いのない〔証拠略〕によれば、拘束者寅之助、同よしは、拘束者雅嗣の補助者として、被拘束者真佐美を監護養育していることが一応認められ、右拘束者両名も、同被拘束者を拘束しているものといえるが、その拘束の違法性の有無は、主たる監護者である拘束者雅嗣の拘束におけると同一に解するのが相当である。

2 そこで、拘束者雅嗣の真佐美に対する拘束の違法性の有無について判断する。

(一) 拘束に至る経緯

(1)  請求の理由3(一)(1) の事実(拘束者雅嗣及び請求者の職業)は当事者間に争いがない。

(2)  原本の存在と成立に争いのない〔証拠略〕によれば、以下の事実を一応認めることができ、右認定に反する右各書証の記載部分及び請求者本人尋問及び同人の審尋の結果はたやすく信用できず、そのほかに右認定を覆うに足りる疎明方法はない。

(イ) 請求者と拘束者雅嗣は、互いに相手の仕事につき理解を欠き、子の養育方針についても意見を異にする等、性格の不一致とあいまつて次第に夫婦関係の円満を欠き、このため同拘束者は精神的に疲労し、神経衰弱症状を呈し、治療や静養のため、十分に働けない状態であつた。

請求者は、昭和五六年一〇月ころまで、トリノ市内で働いていたが、将来における生活の安定を意図し、そのころ、ミラノ市内の音楽学校の教師に転職し、毎週二、三日被拘束者真佐美と正直を連れて通勤し、同五七年一月一七日以降は、ミラノ市内に借家して、毎週月曜日から金曜日までの間、同所に三人で滞在し、土曜日にトリノ市の自宅に帰り、日曜日の夕刻にミラノ市に戻るという多忙な生活を繰り返していた。

拘束者雅嗣は、三人の子の養育を中心とした家庭生活に悪影響を及ぼすことなどの考慮から、請求者のミラノにおける勤務に反対した。

当時、被拘束者宏雅は、被拘束者真佐美ら弟妹と別居することを痛く悲しみ、かつ、拘束者雅嗣の病気の原因が、請求者の雅嗣に対する無理解な生活態度にあるものと思い込み、日ごろ、請求者に反感を抱き、同拘束者に同情していた。

また、被拘束者真佐美は、ミラノ市に連れて行かれるよりも、トリノ市で被拘束者宏雅、拘束者雅嗣と暮らすことを欲していた。

(ロ) 拘束者雅嗣は、昭和五一年ころからイタリヤのある女性と、同五五年ことから他の女性と交際したことがあつた(これらの女性と不倫関係にあつたことを認めるに足る疎明資料はない。)。

(ハ) 同拘束者は、そのころ、イタリヤ国内の旅行に出て宿泊し、また同五六年一二月一四日ころから翌年一月一四日ころまでの間、一時日本に帰国したが、右旅行は、医師の指示により、精神的疲労を癒す目的のものであつた。

(ニ) 請求者は、同五七年一月一七日ころ、拘束者雅嗣の非協力的な態度に憤慨し、その神経衰弱症状は仮病ではないかとの疑いから、同人と激しい口論となり、もはや婚姻関係は破綻したものと考え、離婚を決意するに至り、同年二月三日、トリノ民事刑事裁判所に、身上別居の訴えを提起し、裁判所は、そのころ既に日本に帰国した雅嗣を審尋することができないまま、同年三月一六日、三人の子を請求者の監護に付する旨の緊急的、暫定的な命令をした(但し、この命令があつた事実は当事者間に争いがない。)。なお、右命令が、その後取り消されたことを認めるに足りる疎明資料はない。

(ホ) 前記のできごとがあつた同年一月一七日以降、拘束者雅嗣と請求者間には、まつたく対話がなく、同拘束者もそのころ離婚を決意して日本への帰国を計画し、同年三月一〇日ころ、請求者に事前に相談することもなく、請求者の不在中に、被拘束者らに自己の心情を打ち明け、同人らを連れ、身の回り品を持つて帰国の途についた。

(二) 被拘束者らの生活状態

(1)  来日直前、トリノ市内の小学校六年生であつた被拘束者宏雅は、学業成績が芳しくなかつたが、日本語の個人教授を受けていたため、来日後の昭和五七年四月、肩書地の○○市立小学校五年に転入することができ、現在、同市立中学校一年生であつて、成績はやや向上した。

被拘束者真佐美は、来日当時、日本語を殆んど理解できなかつたが、間もなく習得し、同市内の保育園に入り、現在、同市立小学校一年生であつて、成績はクラスの上位である。

右両名とも、現在の学校及び家庭生活によく適合し満足しており、この状態の継続を強く希望している。

(2)  請求者は、来日した被拘束者宏雅と手紙、電話で接触を計つたが、同人は、これに応じなかつた。

請求者は、被拘束者らを取り戻すため、昭和五九年八月四日に来日し、被拘束者らの住居地に赴き面接しようとしたが、被拘束者宏雅は、拘束者よしから母に会うよう勧められたのに、それを拒否して身を隠し、被拘束者真佐美は、不在等の事由で、請求者と会わなかつた(請求者は、被拘束者らは拘束者雅嗣から請求者に対する故なき憎悪及び畏怖感を植えつけられ、その監視したにあつて自由な意思の表明ができない状態にある旨主張し、疎甲号証中請求者作成にかかる陳述書類、請求者本人の尋問の結果中にこれに副う記載又は供述があるが、これらは、前記認定に供した諸証拠及び弁論並びに準備調査の全趣旨にてらし措信できない。)。

(三) 拘束者ら側の事情

帰国時に神経衰弱症状の拘束者雅嗣は、その後も継続して治療を受け、間もなく回復し、ギターの演奏活動及び個人教授をして、月平均一七万円の収入を得、拘束者寅之助(七七歳)、同よし(七五歳)は、駐車場経営による収入が五万円及び厚生年金等を得て、生計の資としている。

被拘束者らは、現在の生活環境になじみ、友達に恵まれ、かつ、学校から帰れば拘束者らのいずれかの者が在宅し、監護養育を受けられることから、イタリヤ在住当時に比して精神的に安定した日々を送つており、請求者の許へ行くことを嫌つている。

(四) 請求者側の事情

請求者は、ミラノ市でピアノ教師として十分な収入を得ており、二男正直と二人で生活しているが、被拘束者らを引き取り、三人の子と同居し被拘束者らに専門的な音楽教育を受けさせたいと希望している。

(五) 以上認定の諸事情を較量すると、来日後における被拘束者真佐美の監護環境は、以前のそれよりも良好なものであり、拘束者らの監護養育のもとにおける真佐美の生活は既に二年七か月余に及び、その間、精神的に安定した生活を営み、現在の家庭的、社会的環境に順応しているものといえるのであるから、いま、請求者に引き渡されることにより、同被拘束者に生ずるおそれのある諸々の生活環境の急変に伴う心理的な動揺を避け、かつ、請求者と拘束者雅嗣間に今後不可避と思われる離婚に伴う親権者の指定等が最終的に結着するまでの間、父親の監護下での現状の生活を継続させることが、同被拘束者の福祉により適うものということができる。

したがつて、トリノ民事刑事裁判所の緊急的、暫定的な命令(同命令が、請求者の離婚を前提とする身上別居の訴えに基づき、あらかじめ拘束者雅嗣を審尋することなく一方的に発せられたものであることは、前認定のとおりである。)の存在を考慮しても、拘束者雅嗣の真佐美に対する拘束に、人身保護法上違法性があるということはできず、その補助者である拘束者寅之助、同よしの拘束についても、同様に判断することができる。

三 (被拘束者宏雅に対する拘束及びその違法性の有無)

次に、拘束者らの被拘束者宏雅に対する監護が、人身保護法にいう「拘束」に該当するか否かについて検討するに、前示一の争いのない事実及び同二認定の諸事情を総合すると、現在一三歳一〇か月の同被拘束者は、既に自己の置かれた状況について弁別するに足る意思能力を有し、請求者側及び拘束者側の前認定のごとき諸事情を感得した上、自らの意思で、拘束者ら方に居住し、拘束者らの監護に服しているものと認定するのが相当であり、したがつて、右監護は「拘束」に該当しないものといわざるを得ない(付言するに、仮りに、被拘束者宏雅の年齢及び資質の点から、その弁別能力に多少の不安があるとしても、前示二に認定の被拘束者真佐美に関する事実関係と全く同一の根拠に基づき、被拘束者宏雅についても、拘束者らの拘束に違法性があるということはできない。)。

四 そうすると、請求者の本件請求はいずれも理由がないから、これを棄却し、人身保護法一六条一項により被拘束者らを拘束者雅嗣に引き渡し、手続費用につき同法一七条、同規則四六条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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